【愛するということ】の定義

猫を飼い始めたきっかけは、ただの気分だ。

暇だったので、「飼ってもいいかなぁ」くらいの軽い気持ち。

「命を何だと思ってるんだ!」と、怒られそうだが。

結果、僕は猫の沼にはまった。

それはもう見事に。

今や猫なしでは生きられない。

そもそも、このブログを始めた理由が「自宅で猫を看取るため」なのだ。

軽い気持ちで飼い始めたら、いつも間にか生活の中心に居座られた。

人生、何が起こるかわからない。

そして、何を愛するかなんてコントロールできないのだ。

現在、自分が愛している物を挙げてみると、こういう経緯で愛したものが多い。

本も運動も料理もそうだ。

暇だから本を読んでいたら、知りたいことがどんどん増えていった。

暇だから運動していたら、動かないと落ち着かなくなった。

外出したくなくて自炊していたら、ジャンクな外食を受け付けなくなった。

好きだから始めたわけじゃない。

ふとしたきっかけで始めて、なんとなく続けていただけ。

気がつくと愛していた。

そんなものばかりだ。

何かを好きになる経緯は、誰だってそんなものじゃないかと思う。

必ずしも「好きだ」という感情が先にあるわけじゃない。

続けたから好きになったのだ。

つまり「愛は行動である」。

引用元

「愛するということ」

エーリッヒ・フロム著。

多くの人は、愛とは自然発生するものだという認識だろう。

感情や気分のように。

だが、それは違うとフロムは言う。

愛は行動である、と。

加えて、愛は与えるものであり、自己表現でもあるらしい。

特定のものを偏愛することは愛じゃない。

愛とは、世界に対するその人の“姿勢”。

“性格の方向性”だと。

そして、愛するということは“技術”であるらしい。

修練ができるし、また必要だ。

規律・集中・忍耐を持って、日々自分を鍛えること。

そうすることで、人を愛する技術は磨かれると。

雑に要約するとこんな感じだ。

正直、納得できる部分と、首を傾げたくなる部分がある。

後者について。

そもそも、愛ってそんなに高尚なものか?

世界に背を向けて誰かを偏愛することは、愛と呼べないのか?

それなら、大半の人は愛を知らないんじゃないのだろうか。

「愛は行動である」

その思想には賛成だ。

「愛は技術であり修練できる」

この記述にもまぁ納得できる。

しかし、「世界に対する姿勢」、「性格の方向性」ってのはよくわからない。

世界を愛する性格の持ち主。

それはどんな聖人君子だろう

お目にかかったことはないし、いたとしても胡散臭い。

愛ってのは有限のリソースだと僕は思う。

すべてを愛するなんて不可能だ。

だから皆、選ぶのだろう。

本当に大事なものを見極めて愛するのだ。

僕は世界とか知ったこっちゃない。

面白い本、美味しいご飯、爽快な運動。

そして猫の長生き。

人生に臨むのは、今のところそれだけだ。

極力、好きなものだけに囲まれて生きていたい。

それは愛じゃないというフロムが言うなら、別にそれでもいい。

聖人君子になる気はない。

そんな奴、結局誰一人として深く愛せないと思うからだ。

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