僕はすぐに謝る。
謝らない両親を見て育ったせいだ。
彼らはとにかく自分の非を認めない。
些細なことから重大なことまで、他者に責任転嫁するなどの言い訳をする。
それは離婚に至っても変わらなかった。
謝れないことは弱さであり愚かさだ。
そう深く心に刻んだ僕は、謝ることを徹底した。
相手に多少の非があることでも、とりあえず自分の非を認める。
それが正しい行いだと信じ、実践し続けた。
しかし、弊害があった。
“謝れない人”を許せないのだ。
社会に出ると、自分の非を認めない人間は一定数いる。
そんな人に対して、僕は即座に一線を引いた。
どんなに仕事ができる人でも、謝れない時点で拒否リスト行きだ。
間違っているのは相手なのだから、何も問題ない。
そう思っていた。
気づけば、僕は独りぼっちだ。
どうやら“謝れない人”は意外と多いらしい。
むしろ多数派なんじゃないかと思う。
なんて不条理なんだろう。
僕は間違っていないのに、なぜ独りになるんだろう。
世の中どうかしている。
そんな鬱屈を抱えながら生きてきた。
先日ある映画を観て、ぼんやりと答えが出た。
「ぼくのお日さま」
とても眩しくて、寂しい映画。
美しい情景の描写が多い。
一方で、台詞が極端に少ないのが印象的だ。
それでも、観ている者に刺さるものがある。
登場人物の仕草や表情、間の取り方で。
言葉にしないからこそ、彼らの心情が僕らに深く響く。
僕は思った。
歳をとっていて良かった、と。
非言語のメッセージが作中に散りばめられていたからだ。
若い頃ならスルーしていただろう。
老いるに従い気づきが増えて、映画をより楽しめる。
お得だ。
今回の鑑賞を通して学んだことが二つある。
一つ目。
「察することの重要性」
言葉にすることはもちろん大切だ。
でも、大事なことは言語化できない場合が多い。
むしろ大事だからこそ、言語化しない方がいいこともある。
相手が発する非言語のメッセージを、どれだけすくい取れるか。
そのスキルは磨いた方がいい
相手のためじゃなく、あくまでも自分のために。
人を許すことで、楽に生きるため。
映画をより楽しむという得のためだ。
今まで拒否リストに入れてきた、謝れない人たちを思い返してみる。
コチラに非をなすり付ける不愉快な人たちもいた。
でも、自分の非を認めていた人たちもいるのだろう。
ただ、それを言語化できなかったというだけで。
色んな仕草で、それを示してくれていたのかもしれない。
きっと、僕がそれに気づけなかっただけだ。
“謝りたくない”という感情は卑怯なものだと、ずっと思っていた。
でも「感情に善悪なんてあるのかな」と今は思う。
そもそも“謝ってほしい”というのも、僕の“感情”だ。
どっちもどっちなんだろうな、と今更気づいた。
学んだこと、二つ目。
「言葉にすることの重要性」
人間関係は、四季のように移り変わる。
ある関係性が終わり、生まれた余白に新しい関係性がスライドする。
しかし、終わった関係性は記憶として残る。
だからこそ僕は、“楽な終わり方”を心掛けたい。
もちろん自分のために。
辛い記憶は少ない方がいいからだ。
夜中に思い返して歯噛みするような思い出なんて嫌だ。
そのためには、言葉にして伝えること。
自分がどう思っているのか。
相手にどうしてほしかったのか。
伝えることには勇気がいる。
拒絶されることだってあるだろう。
それでも考え抜いて伝えたのであれば、後悔は少ないはずだ。
少なくとも僕はそう。
何も伝えられなかった後悔を抱え続けるより、ずっといい。
「ベストは尽くした」と言い切れるのだから。
人生のコツは、意外とシンプルだ。
相手に求めず、自分ができることをする。
聖人君子のようだが、決してそんなことはない。
繰り返すが、あくまでも自分のため。
楽に、お得に生きるための戦略だ。
他人を気にせず、淡々と続ける。
「積極的無頓着」を実践していこうと思う。
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