【ナミビアの砂漠】とミギーの至言

ずっと女性が苦手だった。

原因はわかっている。

母親だ。

“毒親”とまではいかないが、非常に感情的な女性だった。

その影響で、僕は情緒面において非常に窮屈な幼少期、思春期を過ごした。

男性の女性観は母親によって育まれると思う。

そのため学生時代の僕は、女生徒とロクに会話ができなかった。

社会に出て、女性だらけの職場で働くことになっても同じだ。

必要最低限の会話しかしない。

飲み会などもってのほか。

常に一線を引き、自分の領域を守ってきた。

一種の防衛行動だったのだと思う。

特定の女性と交際したこともあった。

同棲みたいなこともやってみた。

でも長続きはしなかった。

感情的な摩擦に耐えられないのだ。

意味不明なことで怒り出す彼女が理解できなかった。

だから僕は、女性という生き物と深くかかわることを諦めた。

その姿勢は、歳をとった今でも変わらない。

でも、昔と今とでは決定的に違う点がある。

心理的なスタンスだ。

昔の僕は“拒絶”していた。

今の僕は“鑑賞”している。

ただ、ゆったりと眺めている。

何故それができるようになったか。

きっかけは特にない。

おそらく色々経験したことで、諸々面倒になったのだと思う。

先日観た映画は、このスタンスを肯定してくれるものだった。

【ナミビアの砂漠】

主人公の女性は、笑えるほど自己中心的だ。

二股をして悪びれる様子もない。

自分に尽くしてくれる男を平気で裏切る。

新しい彼氏にも暴力を振るう。

感情の赴くままに生きている。

昔の僕なら生理的に受けつけないだろう。

しかし、歳をとった今ならわかる。

人間って大体こんなもん。

感情で動き、論理でそれを正当化する。

そこに性差はない。

作中、主人公と彼氏が喧嘩をするシーンがある。

取っ組み合いの大喧嘩だ。

それを見て思った。

「相手の感情を拒絶するのも、また感情だな。」

僕はずっと自分のことを理性的な人間だと思っていた。

でもそれは大間違い。

ただ“理性的なフリ”をしていただけだ。

人はどうやっても感情からは逃れられない。

他者の感情はコントロールできないし、理解もできない。

自分の感情すらそうだろう。

でも、まぁまぁ確信をもって言えることがある。

感情を理解することは重要じゃない。

僕はずっと「理解しなきゃ」と思っていた。

だから、理解できないことにイライラする。

でも、そんな必要ないんじゃないかな、と最近思い始めた。

何故そう思うか。

「“好き”を説明できない」からだ。

どういうことか。

好きなものを幾つか思い浮かべてみる。

猫。

本。

絵画。

僕は何故これらが好きなのだろう。

説明できない。

理由がわからない。

でも、どうしようもなく惹かれる。

わからないのに好きなのだ。

違う。

“わからないから”好きなのだ。

何かを本気で好きになるということ。

それは大体、“未知”とセット。

“よくわからない”という余白こそが、“好き”という気持ちの拠り所だと思う。

ぼんやりとした好感ってのは、最強だ。

未知だからこそ、“好き”という感情は持続するのではないか。

だから、感情なんてわからないままでいい。

それが自分のものでも、他人のものでも。

“好き”も“嫌い”も未知で当然。

それでも、近しい他者のネガティブな感情はやっぱりしんどい。

だから眺めるのだ。

絵画をぼんやり眺めるように。

威嚇する猫をあやすように。

相手の感情は相手のもの。

自分には理解もコントロールもできない。

女性と良好な関係を築いている男性たちは、そのことを“理解”しているのだろう。

僕はオッサンになって、ようやくそのことに気づいた。

寄生獣のミギーが言った通り。

「お互いを理解できるのは、ほとんど“点”」なのだ。

だから僕は思う。

少ない点を誰かと繋いで、面白い図形が描ければいいな、と。

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