【こちらあみ子】と調整作業

「あなた、変わってるよね」

こう言われながら歳をとってきた。

“変わっている”とは“普通じゃない”ということだろう。

もちろん自覚はある。

四十路を過ぎて猫と二人暮らし。

家族も友人も身近にいない。

毎朝3時半に起きて筋トレをし、毎晩9時には床に就く。

休日の過ごし方は早朝ランニングと、猫を撫でながらの読書。

世間一般の人々が抱く“普通の”中年男性像とは、乖離が大きいと思う。

でも僕は思う。

“普通の人”ってどんな人だろう。

かつて、この問いを投げかけたことがある。

僕に対して「変わっているよね」と言った女性に対してだ。

数秒フリーズした後、彼女はこう返答した。

「えっと、奥さんと子どもがいて…、そうじゃなくても彼女がいてさ…。」

僕は吹き出しそうになった。

それは“普通”ではなく、“願望”だと思ったからだ。

彼女(というより多くの女性)が抱く「男は女を幸せにしろ」という“願望”。

それを“普通”という言葉でラッピングしているのだろう。

世の中で言われている“普通”とは、“周囲の誰かを満足させること”。

もしくは“不快にさせないこと”だ。

コミュニティで孤立するのが怖い人は、自分を普通側に置こうと必死になる。

僕はおそらく、そこら辺の感度というか恐怖心が鈍い。

だから今のところ、コミュニティ内では“変わり者”のレッテルが貼られている。

ここで「今のところ」と書いたことには理由がある。

それは、世の中の“普通”はどんどん変わっていくからだ。

例えば、ライフスタイルについて。

ある調査によると、日本の人口における独身男女の割合は増加傾向にあるらしい。

近い将来、独身が普通になるかもしれない。

そうなると僕も晴れて普通側の人間だ。(嬉しくて涙が出る)

所詮、“普通”なんてものは一過性の概念だと思う。

それを追いかけながら生きるのは、もちろん個人の自由。

しかし、そもそも追いかけるほどの価値があるかは疑問だ。

どうあがいても、自分の中に変えられない部分は存在する。

それは多分“個性”と呼ばれる大事なものだ。

移ろいやすい概念を追いかけるのはコスパが悪い。

変えられない自分を愛でながら生きる方がずっと楽だ。

無害な個性なら抱えたままでいい。

そう開き直って生きてきた。

この本を読むまでは。

今村夏子さんのデビュー作。

【こちらあみ子】

大好きな作品だ。

でも読むのが辛かった。

読み終わった後も辛かった。

そんなわけで、実写映画の方はまだ観ていない。

万人にお勧めできる作品ではない。

それでも、小さなお子さんをもつ親御さんには、読んでいただきたい。

きっと辛くなると思うけど。

僕がこの本を読んで痛感したこと。

それは、

「個性は否定されるべきではない。

しかし、免罪符にはならない。」

ということ。

主人公の女の子には悪意がない。

それでも、その行動は周囲の人々を傷つける。

むしろ悪意のない純粋な行動だからこそ、深く傷つけるのだ。

僕はそれを怖ろしいと思う。

この作品は、最初から最後まで“真っすぐ”だ。

主人公の女の子が、とにかくブレない。

だからこそ、それを取り巻く人々はしんどい。

純粋さは凶器になりうるのだ。

前述したとおり「“普通”を追いかける必要はない」というのが僕の主張だ。

それでも自問し続ける必要がある。

「個性という言葉を逃げ道にして、誰かを傷つけていないか。」

歳をとると、注意をしてくれる人が周囲に居なくなる。

だからこそ、察することが必要。

抱えた個性の調整作業はできるはずだ。

自分の痛みには鈍感でも、他者の痛みには敏感でいたい。

それは、とても難しいことだけど。

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